KKのハリウッドスター超有名人への道

単身オーストラリアへ

単身オーストラリア

僕がオーストラリアに行ったのは大学2年生の夏から大学3年生の3月15日くらいまでの間の短い間でした。

大学は東京都内の大都会の中にあり、キャンパスというよりは何号棟も離れにあるビルが大学でした。

その地下にはマクドナルドがあり、毎日そこに友人とあつまりトランプゲームの大富豪大貧民をして大富豪がタバコ2本を大貧民からもらい、富豪は貧民からタバコを1本もらうという、いかにも大学生らしい??かどうかはわからないが、そんなゲームを毎日毎日やっていました。

その中で僕はタバコを獲得するのはとてもうれしかったのだが、こんな時間の無駄はしたくないと感じるようになりました。

父が100億円ほどの売上のある事業をしていることもあり、かつ父が日本一になるという夢をもっていたのもあり、人としてや男として、大きな夢を持つことの大切さを幼少のころから教えれ叩き込まれてきました。

叶わなくてもいいから、男ならでっかい夢をもて。

これが父と僕の当時の会話の内容の大半をしめていたように感じました。

日本一に向かって努力する父の背中をみて、どんどん変わっていく会社をみて、増えていく従業員の数をみて、父の仕事は本当に大きなことをやっていると時間してきた年齢でもありました。

そして、僕はこの地下のトランプ生活から早く抜けてみんなにもこんなことをするより、夢に向かって歩き出して結果を見せれるように僕がなって、みんなに気づいてもらおうと思いました。

それよりもこんな自分が不甲斐なく、いやだったのです。

父はお金はあったと思います。

でも僕は学費以外は自分のバイトで働いたお金で大学生活を送っていました。

オーストラリアに行ったのも、全て僕のお金で行きました。

特に自慢できることではないですが、一応努力してお金をためていったということは伝えておきたいと思い書いてみました。

周り僕のことをかなりお金持ちのお坊ちゃんに見えていたかもしれません。

実際にそうだったかもしれないです。

しかし、物は買ってくれないし、何か欲しいというと子供のころから「てめー(自分)で稼いだ金で買え」という一言でほしいおもちゃは買ってくれなかったのを覚えています。

そのころから、自分のお金なら買ってもいいのか、思い小さいころからお金を貯めるという習慣はありました。

小学生のころには100万円近くは貯金があったと思います。

僕はこずかいというのはなくて、お年玉や田舎の祖父母がくれるお金を全て母親に預けて貯金をしていました。

子どものころに流行ったゲームもお誕生日やクリスマスとか関係なく、自分でためたお金で買いました。

流石にお金をかなりためたのか、欲しいものが少し大きな金額になっていると、母から「もう少し大人になってからね」と言われてかなり起こった覚えがあります。

だって、自分のお金なら買ってもいいって言ったのは父だから。

そんなことはさておき、オーストラリアに行く準備をしなくてはなりません。

お金は極力使いたくなかったので、国際線を一人で初めて乗るのだが、大韓航空という当時墜落率ダントツ一位のチケットを購入しました。

というのは、一番安いから。

ただそれだけの理由です。

一度、釜山に行きその後乗り換えてシドニー空港へ行くという便でした。

旅経つ前日に父とピザとビールで乾杯していろいろと話をしました。

乗り換えの時に間違えて日本に戻ってくるなよ、と冗談半分で言われました。

僕はそんなことあるわけない。

そう思いました。

僕はこずかいというのはなくて、お年玉や田舎の祖父母がくれるお金を全て母親に預けて貯金をしていました。

子どものころに流行ったゲームもお誕生日やクリスマスとか関係なく、自分でためたお金で買いました。

流石にお金をかなりためたのか、欲しいものが少し大きな金額になっていると、母から「もう少し大人になってからね」と言われてかなり起こった覚えがあります。

だって、自分のお金なら買ってもいいって言ったのは父だから。

そんなことはさておき、オーストラリアに行く準備をしなくてはなりません。

お金は極力使いたくなかったので、国際線を一人で初めて乗るのだが、大韓航空という当時墜落率ダントツ一位のチケットを購入しました。

というのは、一番安いから。

ただそれだけの理由です。

一度、釜山に行きその後乗り換えてシドニー空港へ行くという便でした。

旅経つ前日に父とピザとビールで乾杯していろいろと話をしました。

乗り換えの時に間違えて日本に戻ってくるなよ、と冗談半分で言われました。

僕はそんなことあるわけない。

そう思いました。

しかし、実際に乗り換えの方法がわからないのです。

日本から韓国の釜山にいく飛行機の中で、黒人が僕の隣に座り、この人は間違いなく乗り換えする!!

そう信じてやまなかったのです。

この黒人にぴたっとついていき、釜山についても彼の近くをずっと歩き続けました。

まるで寄り添うように。

しかしこの黒人は出口のようなところをすっと出ていきました。

おかしい、、、

なぜ出る?

そうこう思っている間に僕の頼みの綱の黒人はどんどん奥へ歩いていってしまいます。

僕は思いました。

「一度出てから違う入り口から乗り換えるのか!」

こう思った僕は、笑顔でその出口のところを出ようとしたら、おもいっきり止めます。

そこの門番みたいなおっちゃんが、韓国語でなにやら言ってるのかさっぱりわかりません。

僕はチケット見せて、「シドニー!!シドニー!!」と言い続けたら、おっちゃんはあきれた顔で出ていけみたいなことをしてきました。

僕は「終わった」と思いました。

乗り換えの時間はチケットを購入するときになるべく待たないようにお願いしたのです。

だから30分となかったので必死でした。

しまった。

父の言っていたことが本当に起きる。

このまま日本へ帰国か?

そう思ったとき、神様はいるものです。

一人のおじさんが、偶然にも片言の日本語で僕が日本人と分かったのか日本語で話しかけてきたのです。

「どした?どした?」

おじさんは心配そうにそう聞いてきました。

僕は、「おっちゃん!俺シドニーにいきたいんだ!」

おじさんは「こっちじゃないあっちだ!」

チケットの時間を確認してくれたおじさんは僕の手を引っ張り走って乗り換え口まで案内してくれたのです。

大きく手を振って、「ありがとう!!」そう言って無事にシドニー行きの飛行機に乗れました。

機内のお酒は無料と聞いていたので、ワインを10杯くらい飲みました。

韓国の地ビールも5本くらい飲みました。

添乗員はかなりびっくりしてました(笑)

そして多めにいろいろと持ってきてくれました。

添乗員の男性に気に入られて夜通し話をしました。

出国の方法もわからなかったので、どういったらいいのか教えてもらいました。

よく考えたら英語なんて一切話せない僕に、よく教えてくれたものだと思います。

乗り換えのときに助けてくれたおじさんと添乗員の人の顔は今でも覚えています。

本当にありがとう。

意気揚々とシドニー空港に着いた僕は、「さあ!始まったぞ!僕の伝説がここから始まる!」

そう思っていました。

しかし僕は日本で準備したのは航空券とビザだけでした。

シドニー空港には、Mr SATOとか看板をかかげてホストファミリーらしき人々が待っています。

そして挨拶をお互いして、さーーーっと去っていきます。

これを3回くらいだろうか見ていました。

3回も見ているとここにいても何も始まらないということは分かります。

僕にはもちろん待ってくれている人はいない。

とにかく家に、到着したという連絡を入れよう。

テレホンカードを購入しようと売店らしきところにいきました。

なんとかテレホンカードなのか、電話のジェスチャーをしたらカードを購入できました。

そして、カードをいれて国際電話の方法は調べていたので、いろいろと試してみます。

だが一切つながらない。

うんともすんとも言わない。

僕は、電話もかけられないのか。

まあ、いいでしょう。

外に出よう。

外に出て、煙草を吸って考えよう。

電車の乗り方もわからなければ、これからどこに行っていいのかも分かりません。

空港に到着しました。

以上。

あの時、韓国から強制送還的に帰ってしまった方がいいのではないか、たまにそんなことも考えたりしました。

僕には本当に何もなかったのだから。

そして、外でタバコを吸っていたら、色濃く焼けた日本人の人が話しかけてきてくれました。


お兄さん「あのーー日本人ですか?」

僕「はい。そうです。」

お兄さん「シティに行きたいんですが、どのバスか電車に乗ればいいのか分かりますか?」

僕「シティ? たぶん僕もそこに行った方がいいと思うんですが、一緒に行ってもいいですか?」

と道を尋ねてきた人に、その人のプランに乗っかるという。

お兄さんは、かなり不思議そうに「何もわからないで来たんですか?」と聞いてきました。

僕「とりあえずビザと航空券だけ準備してきました。」

お兄さん
「それはすごい!無謀ですよ!
というか、僕もニュージーランドにいて最後にオーストらりを旅して帰ろうと思ったんですが、
日本で準備したことは本当にお金かかったし正直今ではかなり無駄なお金だったと思います。
だからすごい得してますよ!」

僕はそのお得という言葉だけが何よりの安心感というか、これでよかったんだと思えました。

その人に簡単な英語を教えてもらって、買い物の方法をメモで取り、格安ホテルに一緒に予約してもらうことになりました。

喫煙所にお兄さんと僕がオーストラリアに来た目的を話をしました。

それは独学でビジネス英語まで高めること。

日本食レストランなどのアルバイトのようにみんながやるものではなくて、僕にしかできない何かをやり遂げるということ。

車をもって、本当にオーストらりで生活している人とそう変わらない生活を送ること。

話は盛り上がり、晩御飯も一緒に食べました。

ここからは明日朝早くからお兄さんはオーストラリア一周の旅にでるので、晩御飯を一緒に食べてさよならをしました。

格安ホテルなので、6人一部屋の中、荷物などどうしていいのかわかりません。

旅の素人感丸出しでなかなか眠れませんでした。

朝になり待ちを歩いてみようと思い、スーツケースにカギをかけて出かけました。

ご飯もどうしていいのかわからず、レトルトのお湯をいれたらご飯になるようなものを大量買いしました。

キッチンなど共有できたのだが全く勝手がわからないので、お湯をいれておしまいのものを購入しました。

めちゃくちゃまずかったが腹の足しになればそれでいいといった感じです。

英語もわからないので、レストランに入っても全くメニューがわかりません。

ポテトという文字だけ読めたので、それを注文したらパーティーサイズの5人分くらいのポテトの山が来ました。

しかもかなり高い金額だった。

何もしていないのに、疲労感は半端じゃなかったです。

そしてその日、格安ホテルの延長を2泊ぐらいしました。

明日という日がどうなるのかわからない。

何をしていいのかわからない。

お金だけが減っていく。

漠然とした恐怖がずっと心の中にありました。

そこでふと思い出しました。

国際電話のかけ方をお兄さんから聞いたときの話です。

何やら裏のアルミカバーをはがしてプリペイドのカード番号を入力して初めて国際電話ができるのだそう。

自宅に到着した電話入れていなかったので、電話をしました。

つながった。

電話に出たのは父でした。

父は長くは話さず、「そうか!ついたか!頑張れよ!」ブチッ。

まあ予想はできました。

あっという間に夜になり、二日目の夜は何やら女人禁制の男性専用の共同部屋に女の子を連れ込んでなにやらやらかしている。

寝たふりをしているが全く寝れない。

朝方、超マッチョな黒人が怒鳴り散らして追い出しました。

もう勘弁してくれ。

と思ったらまだ朝早いのにギターを引き出すやつもいました。

もう勘弁してくれ。

そのまま眠れず朝になりました。

スーツケースなんかどうにでもなれというくらい無防備状態で出かけました。

いくあてもないので、すぐい戻り、まずいレトルトのご飯を食べます。

お兄さんに日本人のためのいろいろと紹介をしてくれるエージェント会社があるので、そこにいくと携帯電話がレンタルできるよ。

と聞いたので、早速行ってみました。

二日ぶりくらいなのに、日本語を話したのが久しく思えました。

そこでとりあえず携帯電話を借りました。

誰からかかってくるのか誰にかけるのかわからなかったが借りてみました。

使い方も英語だらけでなにもわかりません。

少しだけ道を覚えたので軽く散歩してまた夜ご飯にまたあのまずいレトルトご飯を食べました。

屋上の喫煙所でひとまず今日という日を生き延びたという感覚でタバコを吸っていました。

そこで、母親に電話してないことに気が付きました。

まだカードの残高はある。

電話しよう。

そして、電話機にいき国際電話を掛けました。

一発で母が出ました。

母「無事についたのね。よかった。そっちは寒い?」
僕「そうだね。寒いね。」
母「そう。体に気を付けてね!みんな待っているからね。」
僕「うん。わかった。じゃあね」

僕は母が電話にでた瞬間に「もう帰りたい」と言いそうになりました。

しかし、母の一言が僕のターニングポイントになりました。

それは「みんな待っているからね」という一言。

僕には幸いにも帰る家がある。

待っている人がいる。

そのことがうれしくてたまらなかったのです。

そして今までに感じたことのない感謝の念が止まらなかったのです。

部屋にもどると、朝方ギターを弾く人も、女の子を連れ込むうるさい連中は一切いませんでした。

僕は6人部屋の自分のベッドに座り込むと、涙がとまりません。

声を出すほど大泣きしました。

1分くらいでしょうか。

大泣きした後にこう思いました。

「僕には待ってる人がいる。変える場所がある。」

「僕の人生が80年だとしたら、この一年にも満たない期間はなんて短い期間なんだ。この期間くらい全力で毎日走る続けないと意味がない。何が世のため人のためだ。この決まった期間くらい死に物狂いでなんでもやらないと!」

そして、次の日から僕は住む場所を探し、借りた携帯電話で電話をして、よく言ってることがわからないから家に実際にいって住む場所を決めたり動き出しました。

他の日本人と違い学校に行っていない僕は友達がいない。

だからなんとか友達を作らないと!

そう思いました。

僕にはダンスしかない。

ダンスで友達を作ろう。

片言の英語でダンサーはどこで練習しているのか聞いていきました。

そうしたら、マリックビルという体育館の中で練習をしているとのこと。

電車に乗って、行ってみたらなんと映画に出てきそうなくらいボロボロの体育館。

そろっと除いてみると、大きな外国人が70人ほど練習をしています。

ここがヤンキーやギャングの巣窟なら僕はもう死んだ。

終わりだ。

でもいい!

入ってみよう!

そして意を決して入ってみます。

なんと日本人の人が練習をしていました。

彼は「こいつら全員いい奴らだから、どこでも好きなところで練習して大丈夫だよ」

僕「わかりました!ありがとうございます!」

そして練習をはじめました。

僕はこの時すでにリーサルウェポンのようなダンスのムーブをもっていました。

日本では一回も成功したことないこのムーブがなんとここで大成功をしたのです。

会場内は大歓声(言い過ぎたかも)に包まれました。

有名なダンサーかとか名前はとか言われたが全く答えられません。

日本人の彼に通訳をしてもらって、携帯電話を貸せと言われて一人に渡したら。

ぐるっとみんなが自分の番号を僕の携帯に登録していきます。

電話帳0件から50件くらいの電話帳になったのです。

一夜にして50人と知り合いになれました。

神様はいるんだな。

本当にそう感じました。

ただ頑張ってる人にしか神様はその力を貸してくれない。

そう思うしかありませんでした。

努力が報われない人もいるかもしれない。

でもそれは報われようとする行動でなくて、とにかく必死に頑張れば報われようなんて考えないと思います。

僕は、今日という日を、今という時間を必死に前を向いていただけでした。

運がいいのかもしれない。

それは結果良かったのでしょう。

この日こんなサプライズが起きなくても、僕はきっと前を向いてあるいていると思います。

そして結果、同じようなミラクルサプライズかミラクルサクセスが起きるのだと思います。

オーストラリアではダンスのコンペに出れば優勝か準優勝で賞金で月の生活費を稼いでいました。

大きな大会に優勝したのもあり、有名スポーツメーカーから物資のスポンサーも2社つきました。

着る服や靴には困らないくらい物を好き放題選べました。

オーストラリアについてから約10日間ほどで、このような軌道に乗れました。

そして、滞在してから5カ月ほどしたときだろうか、母がオーストラリアに遊びに来るとのことなので、一緒にいろいろと旅をしました。

その時、父から手紙を預かっているということなので、読んでみます。

これが今の僕の原点となるオーストラリアで感じた第二のターニングポイントだったのです。

その手紙にはこう書かれていました。



息子よ。

元気ですか。

オーストラリアは日本と季節が逆と聞きます。

きっと、そちらは夏の季節なのでしょうか。

私は山梨で日本一になる夢に近づくために、山梨に単身赴任しています。

山梨の朝は氷点下です。

車のエンジンが冷え切ってエンジンがかからなかったり、初めての一人暮らしで少し大変な思いをしています。

息子よどうか無事で頑張ってください。



息子よ、あなたは旅に出ました。

とてもとても大変旅にでたのです。

それは 世界の人々を幸せにする旅 に出たのです。

大変なこともあるでしょう。

でも最後まで希望をもって大きな夢をもって頑張ってください。

帰ってきたらおいしい日本酒で乾杯しましょう。

しばらくの間、お母さんが世話になります。

よろしくお願いします。




そうか。

僕は世界の人々を幸せにするために、ここにいるのか。

正直にそう思いました。

世のために人のために生きる人生はここで幕が大きく開いたのかもしれません。

そこから僕は片時もこの思いを、気持ちを忘れることはありません。

今も人生の目標を見失わず、多くの人が助けてくれるのは、この日々があったから。

母の一言があったから、父の手紙があったからだと思います。

このオーストラリアの旅は僕の人生を大きく切り開くことになりました。


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