帰国後の僕
帰国後の僕

オーストラリアから帰国後、僕はダンス漬けのオーストラリア生活でした。
向こうではプロで活動をしていました。
かなりの自信をつけて帰国した僕は、帰国後のチーム大会で準優勝しました。
オーストラリアで決まったリーサルウェポンもその時日本のダンサーたちに見せつけることができました。
自信もつき、生意気な若造だったと思います。
自分のやっていることは全ていけてる。
そう思っていました。
このままカナダで一年間ダンスの修行に行こうと思いました。
就職はしないつもりでした。
しかし、カナダへの渡航費がたまりそうになく、バイトも初めてはしばらくしては辞めてしまい、その後は面接すら受からなくなりました。
お金が本当にありません。
カナダはまだいつでも行けると思い、経験のために一度就職しようと思いました。
就職は異例な採用ですぐに受かりました。
面接もしないで説明会で本社の人から直接電話があって、その電話で採用頂きました。
この就職をきかっけに僕の人生の目標である世のため人のために生きるということに走る行動力をさらに躍進させます。
それは、なぜ有名人のページを読んで頂けたらすべてを掲載しています。
結果、二年たたないうちにこの仕事をやめます。
双子の兄と英語関連の教材を作ってネットで売れないか?
ということで、すべての貯金を使って初めて株式会社を設立しました。
なんとか売り上げを上げようと必死に考えていたとき、僕に一本の電話が鳴りました。
それはオーストラリアでお世話になった、ダンス関係者の人です。
その人が僕と大阪でダンススクールを盛り上げたいとのことでした。
一緒にやってくれないか、というオファーの電話をもらい兄弟に話をしました。
兄弟も実家にいって毎日毎日父とケンカをしていました。
それに嫌気がさしたのか、話をすると速攻で荷物をまとめて軽自動車をレンタルして大阪に出発しました。
大阪に到着後、仕事がるようなことを言っていたのですが実際は何もありませんでした。
行き詰ったのが3か月後。
その人はいなくなりました。
僕と兄弟は残り少ないお金で引っ越しをしました。
家賃1万円以下。
布団が敷き入れないくらい狭い部屋に二人で1年半生活しました。
その時に、食べるものがないので、魚肉ソーセージを一日半分づつ食べていたら栄養失調になりました。
医者に診断された時に、医者がこんなことを言いました。
「もう20年くらい医者やってるけど栄養失調って言ったのは君が初めてかもしれない」
何言ってんだこいの医者は?
そう思いましたが、これだ物資が豊富な時代に栄養失調なんてなることはあまりないでしょう。
言われてみたらそうですね。
その後、ダンスの仕事は障碍者の子供達へのチャリティーイベントに参加して、そこからMCの仕事や人とのつながりでアンダーウェアのモデルなど仕事は広がっていきました。
そのころ英語の会社はというと存在すらほぼ忘れていました。
売上は上がらず、兄弟とは衝突もしました。
結果会社はつぶしました。
僕は残り、兄弟は関東の実家に帰りました。
そこから僕は世のため人のためになることを仕事にしようと思い考えました。
今まではダンスをきっかけに芸能人のようになれば、お金もあるし知名度もあるし世のため人のために何か大きなことができると思い、芸能活動みたいなことを頑張っていました。
でも、年齢もあります。
このときすでに27歳でした。
これから30歳という壁が目の前にどーーんとあるように感じました。
ビジネスで金持ちになろう!
そう思いました。
この時は2008年、深刻な少子高齢化時代にさしかかったくらいの時期でしょうか。
僕は地域と地域を若い子が宅配をしてご老人たちとのコミュニティーつなぐ宅配事業をやろうと思いました。
若い人がお年寄りのために重いものを運ぶ。
例えば困ったことがあれば聞いて手伝ってあげる。
そんな会社を地域に増やして広げていけばいい社会が作れると思いました。
ビジネス経験も浅い僕です。
これは幼稚な考えかもしれませんが本気でなれると思いました。
その時何を宅配しようか?
何がいいのか?
考えたときにお米が重いし日々のことだからいいのではないか?
そう思ったときに父の顔が思い浮かびました。
そうです。
僕の父はお米の事業をしているのです。
お米で日本一になるという夢をもっていたのです。
僕は、緊張しながら父に電話しました。
僕「もしもし」
父「なんだい?」
僕「宅配事業をこっちでやろうと思うんだけど」
父「宅配?」
僕「うん。お米をちゃんとお金払って仕入れるから金額教えて欲しい」
父「そうか。明日そっちにいくから新大阪までこれるか?」
僕「来るの?わかった。新大阪に行くわ。」
電話の時は緊張してたので、普通に話を聞いてましたが、このためだけに父は大阪に来ました。
そして、お酒を飲みながら話をしました。
父は、この会社の100億っていうバックボーンがあるんだから、お前がちまちま始める必要はない。
この会社で修行してやりたいことやれ。
そういいました。
僕は、そんなことができるのか。
それは確かにいいかも。
この時僕は一人で事業をしたことがなかったので、色々と感じていた不安がだいぶ解消されました。
父に自分の事業の夢を委ねてしまったのです。
そこで、父がが言いました。
父「お前に3つの宿題を出す。
一つ目 何も手伝わない。一切のコネも渡さない。でも上場している企業に入れ
二つ目 そこで3年以上働け
三つ目 課長以上にやめないでくれと言われる人間になれ」
この三つでした。
当時は世の中を揺るがせたリーマンショックが起きて1か月後くらいだったと思います。
大手の会社は求人どころではありません。
求職者と求人掲載者数が反転し、求職者であふれかえった時です。
でも僕は持ち前のキャラに自信はあったので、どんな時でも僕は就職に受かる自信はありました。
それはオーストラリアの経験とド貧乏の経験、ダンスや栄養失調の経験があるので、その辺の人よりは面の皮が厚い方だと思いました。
何を言われてもへこたれませんし、採用しなかったら後悔させてやるくらいの自信がありました。
そこで会社には受かりました。
上場している企業で情報を商材にある分野では日本で2位1位のシェアを誇る会社に就職しました。
そこで上司とぶつかり合いながら何かと賞をとり、自分が後悔しないように仕事をしたいと思って仕事をしました。
お客さんが喜ぶことは何なのか?
今の会社の商品以外にもお客さんのためになることは自分出来ることはなんでもしようと思い、やってきました。
結果、新規獲得数とか、WEB商品で事業所内の一位を取ったりできました。